「配属は六本木第二事業部の制作技術、テレビ朝日」、そう電話で聞いた時、私は期待と理想で胸を弾ませた。どんな仕事をするかは分からないし少し不安はあるけれど、きっと芸能人にもいっぱい会えるだろうし、楽しいに違いない。テレビ局でアルバイトしたわけでも、大学で映像の専門的な勉強をしてきたわけでもない私は、今思えばただ漠然としたイメージだけを持って、「テレビの仕事をするのだ」と浮足だっていたかもしれない。
4月、無事に入社した私は東京でVEとしての道を歩き始めた。それからの日々は、大学時代持っていた理想や期待など思い出す暇もないほど、毎日が目まぐるしく過ぎていった。聞いたこともないような言葉を覚え、見たこともない機器を扱い、スキルを身に着けていかなければならなかった。
また、不規則な生活に体も少しずつやられていき、気持ち的には「まだいける」と思っていた1年目のリオオリンピック終わりに人生で初めて病気を患い入院した。しかし、大変だったのは最初だけではない。年次を重ねれば重ねるほど、“出来なければならないこと”が増え、出来ない自分にやきもきすることが多くなった。そんな厳しい現場でも諦めずにやってこられたのは、大きく分けて2つの理由が私の中にはある。
一つ目は、周りの人たちの助けがあったからだ。共に仕事をしていたテイクシステムズや日放の先輩方もそうだが、同じトラストネットワークの先輩方は特に同じ仕事に就くことも多く、常に仕事の理解度や体調面の心配をしてくれた。時には私に代わり、無理のありそうな仕事振りに意見を言ってくれた。同じ厳しい現場で働いているからこそ、理解してくれ、支えてくれ、守ってくれた。とても恵まれた人間関係の中で仕事が出来たことが、本当にありがたかったし、きつい仕事も乗り越えていけた。
二つ目は、仕事の“大きさ”だ。もちろん、同じテレビ局という仕事の上で、東京と地方、業種によっての仕事の価値の差などない。どっちが偉いとか、どっちがすごいとかもない。ただ、やはり東京のキー局の仕事はそこについて回るものが大きい。だからこそ、やり遂げた時の達成感が自分にとって原動力となった。入社1年目からオリンピック、WBC、W杯予選にフィギュアグランプリシリーズなど、主にスポーツ物件の撮って出し編集において、直に放送と関わることが多かった。
入社当時からやっているとあまり実感がないものだが、自分の作ったものが何百万、何千万人の人が観ていると冷静に考えると鳥肌が立った。また、バラエティ番組の収録においても、自分の名前がエンドロールに載るのを初めて観た時は家で一人ニヤけてしまったし、親に伝えたとあらばすぐさま親戚中にテレビ画面の写真が回った。
入社3年目にはMステのウルトラフェスの中継収録に携わったり、自分がチーフVEを担当する番組もできたりと、自分がこの番組を良くしていくのだという意識が高まるきっかけが増え、モチベーションをあげることができた。
約3年間の東京での生活を経て、2018年12月、私は新しいステップ、長野事業部への異動をさせてもらうことになった。長野事業部での仕事はこれまでやってきたものとは全く違い、職場の方々には忙しい中、この初心者相手に1から指導していただいている。しかし、やっていることは違うとはいえ、テレビ番組を作り、無事に放送できるよう支えていることに変わりはない。
東京でやってきた3年間の経験を、これから長野事業部で発揮していけるよう、まずは目の前の仕事に真剣に向き合っていきたい。
最後に、この場をお借りして3年間お世話になった六本木第二事業部制作技術の皆様に御礼を申し上げたいと思います。早いもので私が長野に来て1ヶ月以上が経ちました。私は私で、新しい居場所でなんとか踏ん張っています。時々寂しくなって連絡してしまうけれど、そこでパワーをもらってまた前を向き直しています。自分で決めた道なので、皆さんに心配かけないよう、自分の道をやり通したいと思います。その上で、たまには美味しいお弁当をいただきに参りますね。
また皆さんとフェリーの上から綺麗な夕陽を見られますように。とても濃い3年間を本当にありがとうございました。